Chapter 14.5メートルの水に浮かぶ、
屋根。
2011年10月4日、タイ全土を大洪水が襲った。
日本で一番長い河川である信濃川の約3倍にあたる
タイ最大河川チャオプラヤ川が氾濫したのだ。
浸水水域は1万8000平方メートル。
これは日本の「四国」と同等の広さ。
被害者は約950万人、死者800人以上、
被害総額は1兆3,600億バーツ(約3.5兆円)にのぼり、
歴史に刻まれる大災害となった。
中でも、ヨシタケが工場を構えていた
アユタヤ地方・サラハッタナコン工業団地(通称:サハ工業団地)の被害は甚大だった。
水深は4.5メートルに達し、
工場の屋根のみが水の上に浮かんだ状態が1ヶ月以上も続いた。
工場内はすべて水で侵食され、加工工作機やボイラー、
検査機器などの機械が水の底に沈み、廃棄処分となった。
当時、ヨシタケ サハ工場で働いていた従業員は236名。
この洪水により自宅の浸水などの深刻な被害を受けた者は約半数。
二次被害も含めればほぼ全員が被災した。さらに深刻だったのは、
タイには、日本のように被災者を受け入れる避難所がなかったことだった。
家を失い、親戚に身を寄せる者もいれば、寺院に身を寄せる者もいた。
この洪水をきっかけとして、タイに工場を構えていた日系企業のうち
40社以上がタイから撤退した。「もうタイはこりごりだよ」。
水の底に沈む町並みを横目に、他国に拠点を探しに行く日系企業の姿があった。
Chapter 2ヨシタケは、
「体の半分」を失った。
ヨシタケのタイ進出は、いまから30年ほど前にさかのぼる。
当時のタイは、電気・ガス・水道・道路などのインフラが十分ではなかった。
そんな中、当時の社長は
「コスト管理が完結できる一貫生産の時代が必ず来る」
という想いを胸に、舗装されていない砂利道を車で奔走した。
のちにアユタヤ地区の工業団地は、
ホンダや東芝、キャノン、ソニー、味の素といった企業が続々と進出し、
2011年には名だたる日系企業の工場が立ち並ぶ一大工業地帯となっていた。
その工業地帯が突如、水の底に沈んだのである。
ほぼすべての工場が閉鎖に追い込まれたが、
ヨシタケが置かれた状況は他の企業とは大きく異なる。
他の大企業は世界に50、60の工場を持ち、そのうちの1拠点を失ったに過ぎない。
それに比べヨシタケの生産拠点は
国内の小牧工場とサハ工場の2拠点のみで、
いわば「体の半分」を失った状態だった。
そんな大打撃を受けた状況でも、
ヨシタケにはタイから撤退する意思はなかった。
その理由は「人」だった。
工場建屋や機械は、資金があれば揃えられる。
しかし、そこに命を吹き込まなければいいモノはつくれない。
工場にとって、その命とは「人」そのものだと考えていたからだ。
最も大きな財産である「人」を捨て、他国に行くことなど、考えられなかった。
Chapter 3170km離れた土地で、
また一緒に働きたい。
そして、再スタートを切るべく約20名の復興プロジェクトチームが結成された。
その復興チームの中心人物が、現タイ工場長・早川である。
早川は現地に初めて足を運んだとき、愕然としたという。
愛着のあるサハ工場には車や徒歩で近づくことができず、
タイ国軍のボートを借り、軍人に同乗してもらい工場へ近づいた。
そこにあったのは、すでに使えなくなった工作機械や在庫製品たち。
もちろん、従業員など誰ひとり入ることはできず、
工場周辺はさながらゴーストタウンのような様相だった。
当初は、サハ工業団地での再復興を考えたが、
近くを流れるチャオプラヤ川は再び氾濫するリスクを孕んでおり、
何度考えても同地区での再建は諦めざるをえなかった。
新たな移転先として白羽の矢が立ったのは、
サハ工業団地から約170km離れた「チョンブリ」という場所である。
多くの日系企業がタイ人を解雇するなか、
ヨシタケは自宅待機中のタイ従業員に対しても給与を全額補償していた。
そして、その従業員に対し「チョンブリ工場で、また一緒に働かないか?」と聞いてまわった。
しかし、タイには「転勤」という文化がない。
170km離れた場所に転居して勤めることは、
タイ人の常識ではありえないことだったのだ。
実際、従業員の4分の3は首を横に振り、地元に残る選択をした。
しかし、4分の1の従業員は家族を連れてチョンブリまで来ることを決心してくれたのだ。
その中のひとり、パイサーンはこう言う。
「水害時に上司が毎日のように電話をくれて
『君が必要なんだ。君と働きたいんだ。』と言ってくれた。
ヨシタケは、自分がいる意味を強く感じられる会社だと思った。
だから、家族でチョンブリに行くことを決心した」と。※パイサーンのインタビュー動画は下記
Chapter 41年の復活劇。
ヨシタケの製品は他社製で代用できないモノが多く、
いち早く生産を再開する必要があった。
顧客からの「ヨシタケさんしかいないんだから、何とかしてくれないか」
という言葉を受け、
復興プロジェクトチームは1分1秒でも早く製品を届けるために一枚岩となった。
社長はみずから作業着を身にまとい、タイに常駐。
プロジェクトチームのリーダーである早川に現場での権限のほぼすべてを移譲し、
復興スピードを加速させた。
また、プロジェクトメンバーの一人、
西山は製品のベースとなる「鋳物」の調達に奔走した。
膨大な設計図を持ち歩き、協力してくれるタイの企業を探しまわった。
そして「タイでやっていく」というヨシタケの姿勢に
「一緒にやろう」という現地のパートナーを見つけることができた。
その結果、災害からわずか3ヶ月後にサハ工場を再稼働させたのだ。
一方、国内では、それまでタイで行なっていた加工を小牧工場で担うことにした。
非常事態につき製造スタッフは昼夜ともにフル稼働で働き、
開発スタッフも製造ラインに入り作業をした。
「ヨシタケさんのバルブじゃないとダメなんだ」
というお客様の声を受けた営業たちは、
ヨシタケの在庫だけでなく、取引先の在庫まで調べ上げ、
「すぐに使うもの以外は返品してもらえませんか」と頭を下げ、
困っているお客様へ製品を届けた。
「ヨシタケだけ、と言ってくれるお客様の想いに応えないで、
何がヨシタケの営業であるか」。
大阪営業所長の田村はそう言ってメンバーを鼓舞した。
こうして、それぞれのメンバーが使命をまっとうし、
災害から1年という異例の速さで、
チョンブリ新工場の稼働がスタートしたのである。
Chapter 5これからも常識に抗うことで、
進化する。
いま、ヨシタケのタイ工場には、多くの有名企業の役員や経営者が見学に訪れている。
誰がどこで噂をしているかは定かではないが、
「大洪水からたった1年で復活した工場」として、
日本のみならず世界でも密かに有名になっているのだ。
見学者から「復興で最も重要だったことは?」と聞かれたとき、
工場長の早川はいつもこう答える。
「先生の存在ですね。」
バルブの加工や組み立てには、厳しい精度とスキルが要求される。
4分の3が新人であるチョンブリ新工場において、
短期間でこれまでと同じ品質を保つことは不可能だと思われた。
そんな中、早川はサハ工場からチョンブリに来てくれた4分の1の従業員一人ひとりに
「きみたちが新しい工場の『先生』になってくれないか」と伝えた。
そして、彼らがたくさんの『生徒』を育ててくれたのだ。
そして、大洪水の半年後にはすでに安定した品質のバルブを製造し、
ユーザーのもとへ届けることができるようになっていた。
人のちからをどこまでも信じる。常識では考えられない復興劇が、
この信念が間違っていなかったことの証となった。
そして現在も、チョンブリ工場は着々と進化している。
環境負荷が少ないソーラーパネルを設置し、4億円分の在庫を抱える新倉庫を建設。
在庫をできるだけ抱えないというのがメーカーの定石だが、
ヨシタケは常識に逆行し、ユーザーから注文があったらすぐバルブを発送できる
「タイムロスゼロ体制」の構築を選んだ。
現在、ヨシタケのバルブの販売先の8割が国内向けだ。
数年後には海外の比率を5割にまで伸ばす計画だ。
進化を続けるチョンブリ工場が、その大きな原動力になることは間違いない。